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江戸幕府の成立

 かつて織田信長と同盟し、東海地方に勢力をふるった徳川家康は、1590年、北条氏滅亡後の関東に移され、約250万石の領地を支配する大名となった。
豊臣政権下では、五大老の筆頭の地位にあった家康は、秀吉の死後、地位が浮上した。
 しかし、五奉行の一人石田三成と家康の対立が表面化し、1600年、三成は五大老の一人毛利輝元を盟主にして兵をあげた(西軍)。
対する東軍は、家康と彼にしたがう福島正則・加藤清正らの諸大名で、両者は関ヶ原で激突(関ヶ原の戦い)。
天下分け目の戦いに勝利した家康は、西軍の諸大名を処分し、1603年、全大名に対する指揮権の正正統性を得るため征夷大将軍の宣下をうけ、江戸に幕府をひらいた。
江戸時代の幕開けである。家康は、全国の諸大名に江戸城と市街地造成の普請を、また国単位に国絵図と郷帳の作成を命じて、全国の支配者であることを明示した。

 しかし、家康にしたがわない秀吉の子豊臣秀頼がいぜん大坂城におり、名目的に秀吉以来の地位を継承しているかにみえた。
1605年、家康は将軍職が徳川氏の世襲であることを諸大名に示すためみずから将軍職を辞し、子の徳川秀忠に将軍宣下をうけさせた。
家康は駿府に移ったが実権は握り続け、ついに1614〜15年、大坂の役(大坂冬の陣・夏の陣)で豊臣家をせめほろぼした。

幕藩体制

 幕府は大坂の役直後の1615年に、大名の居城を一つにかぎり(一国一城令)、さらに武家諸法度を制定して大名をきびしく統制した。
家康の死後、1617年に2代将軍秀忠は、大名・公家・寺社に領知を与える確認文書(領知宛行状)を発給し、全国の土地領有者としての地位を明示した。
また1619年、福島正則を武家諸法度違反で改易し、法度を遵守させるとともに、将軍より年功の外様大名をも処分できる力量を示した。
また秀忠は、1623年、将軍職を家光にゆずり、大御所として幕府権力の基礎固めを行った。
 1632年、秀忠の死後、3代将軍家光も肥後の外様大名加藤氏を処分した。さらに1634年、代がわりにあたる30万あまりの軍勢をひきいて上洛した。
これは全国の譜代から外様に至る大名に、統一した軍役を賦課して軍事指揮権を示したものである。
大名は領知石高に応じて一定数の兵馬を常備し、将軍の命令で出陣し、平時には江戸城などの修築や河川の工事などを負担した。
家光は1635年、武家諸法度を発布し、諸大名に法度の遵守を厳命した。そのなかで、大名には国元と江戸とを1年交代で往復する参勤交代を義務付け、妻子は江戸に住むことを強制された。
こうして、3代将軍家光のころまでに、将軍と諸大名との主従関係は確立した。
強力な領主権を持つ将軍と大名(幕府と藩)が土地と人民を統治する支配体制を幕藩体制という。